SMAP解散を納得するために。
「最小限主義の心理学」不定期連載第5回
「仕事」が人を嫌いにさせる
まずは理想論でSMAPの解散について考えてみた。人間関係のミニマリズム。それは、「人と人」の関係を再構築するもの。さらに付け加えると、自分は宇宙の塵の一つだと認識し、「何ものでもない」と思うことで、人間関係の再構築は始まる。と書きたいところだが、芸能人に対して「何ものでもない」という考え方は厳しいものがある。実際には芸があり、実績があり、個性があり、それで食っているからだ。まわりはそういった芸のある人として尊重し、ファンがいて、輝いている。「何ものでもある」のが芸能人だ。「昨日までやっていたことは忘れる(今までの栄光は忘れる)」と語っていた俳優もいるが、そういった境地にはなかなか至らない。
なぜかと言えば、活躍しなければ仕事がなくなる世界だからだ。誰だって食べることを第一としていて、仕事を続けることに集中している。何ものでもなければ、仕事はこない。それは芸能事務所もマネージャーも同じで、芸能事務所としては事務所の存続が第一だし、マネージャーも会社内でクビにならずに生き抜くことが第一となる。SMAPにおいてもそれは同じだ。生き抜くこと。これが仲違いの原因となった。
5人が事務所を辞めて生きていけるのか。どうだろう? 無理だろうか。可能だろうか。残ったほうがいいだろうか? そこにメンバー間の差異が生まれた。それは、エベレスト山頂付近で揉めるのと似ている。アタックするべきか、下山すべきか。その判断ひとつで、生き抜くかどうかが決まる。
そして、その判断が正しいかどうかは、誰にもわからない。その点では、誰も責めることはできない。
人が生きるためにする「仕事」。認める、認めないといった観点で日々揺れ動く仕事の世界。ここで人は衝突する。一緒に山に登らなければ、判断を巡って対立することも、細かい動作が気になることもなかった。ふと口から出た一言に傷つくこともなかった。登頂一番乗りを巡って、夜中に抜け駆けで出発したり、嘘をついて相手を油断させることもない(エベレスト登頂を巡って本当にあったらしい)。
それぞれの役割にプロとして望むから、主張は曲げられない。「これで食っているのだ」というプロ意識が、衝突を生む。そうやりながら最終目的に進んでいく。聞こえはいいが、実際は不満を生んでいる。
「もう二度とこのメンバーでパーティは組みたくない」それが結果だ。
SMAPという執着
もし「何ものでもない」という境地で望むとどうだろうか。「私はここで撤退すべきだと思う」と健康面の判断から思っても、「行ける!」と主張するメンバーを尊重し、譲る。その後、成功すれば「撤退」という判断は間違いだったと批評されるし、失敗すれば正しかったと認められる。ただし、どうしてもっと(プロとして)主張してくれなかったんだと、責められるだろう。
別の見方では、登頂に成功した場合、自分の判断に執着せず、他人の意見を受け入れることで、判断をミスせずに済んだとも考えることができる。「人は間違える」という観点から考えると正しい。
もう一つは、「撤退すべき」という意見を成立させるために、「行ける!」という意見を聞きつつ、全体をうまく転がして「撤退」に向かわせる。ということができる人もいる。タオイズム的考え方だが、SMAPの解散の場合は、「解散しない」という方向のために、全体を動かそうとした人もいた感じはする。そう考えると、再び悲しい。
やはり、それぞれの「執着」は、強かった。
「執着を離す」とはミニマリズムでも語られる素晴らしい考え方だけども、実際に実行しようとして、あらゆる場面で使うのは難しい。○○会社という立場から離れて考えてみようとか、親という立場から離れてとか、日本人という執着を離れて、中国人という立場から尖閣諸島問題を考えてみようとか、心理学では大切とされていても、実用的ではないのだ。だから、解散騒動時には、それぞれが何かに執着を持ってしまった。としか云いようがない。そして、それは決して悪いとは言い切れない。
今、SMAPのメンバーは、SMAPという執着から離れるという決断をした。正解も不正解もない。
ただ、本人たちを含む多くの関係者に悲しさや怒りが残っている。
メンバーは執着し続けることを苦悩して辞めたのか、メンバーで活動することの不満が爆発して手放したのか、真実はわからない。いずれにしろ、決着をつけたということは、関係をミニマル化して、生き抜く勇気は整ったのだろう。
人が何かに属し、仕事をすることで人間関係が難しくなるというのは当然のこと。それを25年続け、山頂目指して孤独なチャレンジをし続けたことは、凄い実績だったと、この文の書き終わりに感じている。そして、悲しい。
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